ELDEN RING

※この記事には死衾の乙女、フィアのイベントに関する重大なネタバレが含まれます。また、断片的な情報を元にした考察ですので、公式の設定とは異なる可能性があります。

 前回の記事では、魔術師ロジェールについてまとめた。彼と同じように“死に生きる者”を救おうと考え、行動しているのが“死衾の乙女、フィア”である。
 今回は「死衾の乙女、フィア」にスポットライトを当てる。

―死衾の乙女、フィアについて

 死衾という、聞き慣れない言葉を使う女性である。これがどういうシステムなのか、彼女の台詞から想像することはできる。

「英雄様、ほんの一時、私に抱かれてくれませんか
 貴方の生きる力、意志を、私に分けて欲しいのです
 そうすることで私は、英雄の温もりを知り
 貴方には、帳の恩寵がもたらされるでしょう
 …卑しいと、お思いですか?
 けれど私の故郷では、これが聖なるやり方なのです」

 「…故郷では、私は死衾の乙女と呼ばれていました
 数多英雄の温もり、生きる力をこの身に宿した後
 貴い方の遺体と同衾し、再びの偉大な生を与える
 私は、そのための存在だったのです
 …けれども私は、貴い方が再びの生を得る前に
 祝福により目覚め…、故郷を追われました」

 英雄たちの生きる力、生命力のようなものを受け取り、それを遺体に分け与えることで生き返らせる、というのが死衾の役割のようである。
 フィアに抱かれると最大HPが減ることからも、生命力を分け与えているというイメージは正しいように思われる。
 ただし「私の故郷では、これが聖なるやり方なのです」という言葉から、これが狭間の地の文化・習慣ではないことが分かる。狭間の地では「卑しい」と思われる行為なのである。

 「それで、どうされるおつもりですか?
 あの乱暴な、黄金律の原理主義者たちのように
 我らのすべてを否定するのですか?」

 「…おかしな方ですね
 私は、死に生きる者たちの庇護者
 穢れの魔女とさえ、呼ばれる女です
 貴方は、それでもなお、私に抱かれてくれるのですね」

 黄金律は、“死に生きる者”の理を許していない。それと同じように、フィアに対しても“穢れの魔女”という呼び方で蔑み、否定していることが分かる。

 しかし、フィアはその現状を打破しようと行動した。

 黄金律が“死に生きる者”を認めないのならば、その律を変えてしまえばいいのだ。
 彼女は死王子ゴッドウィンと同衾し、“死王子の修復ルーン”を生み出すことに成功する。そしてそれを使ってエルデの王となることを、主人公に依頼してくる。

 「…私はもうすぐ、ゴッドウィンと同衾します
 そして、きっと宿すでしょう
 黄金の王子にしてデミゴッド最初の死者たる彼の、再びの生を
 死に生きる者たちのための、ルーンを
 貴方に、お願いしたいのです
 私の子を、ルーンを掲げ、王になってはもらえませんか
 死に生きる者たち、そのあり様を許す
 我らのエルデの王に」

 現状の黄金律のままでは、“死に生きる者”は存在を許されないばかりか、狩りの対象にさえなってしまっている。
 修復ルーンを使うことで律を書き換え、「死に生きる者たち、そのあり様を許す」ように変えてほしいというのが彼女の願いである。

 彼女はなにも「死に生きる者たちだけの国が欲しい」と言っているわけではない。ただ「あり様を許」してほしいだけなのだ。あまりにも些細で、それだけに切実な願いである。
 ただ自分たちの存在を許して欲しい、認めて欲しいというだけなのである。

 フィアのイベントは、彼女が“死に見えた者、D”デヴィンに殺害されて終わる。

 黄金律によってのみ存在を許されたD兄弟と、黄金律に存在を否定されたフィア。その思惑が絡みあった結果、最後の悲劇を生んでしまった。
 D兄弟もフィアも、どちらも自分の存在価値を守るために行動したのである。

 自分たちの存在を認めてくれた黄金律を守ろうとするD兄弟と、自分たちの存在を認めようとしない黄金律を変えようとしたフィア。筆者はどちらも責めることができない。
 ただ彼らは、自分の居場所のために行動しただけなのだから。

 狭間の地には、黄金律から外れたものを穢れや忌みとして扱う慣習があちこちに残されている。そこから生まれた差別や偏見も。
 黄金律がもっと寛容なものだったならば、きっと結末は変わっていただろう。そう思えてならない。彼らは皆、黄金律の不寛容さの犠牲者なのだ。